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カウンセリング

カウンセリングとの出会い

ある出来事から、自分が変わる必要性を感じ、色々と模索した後に、1996年からセルフ・カウンセリングを学び始めました。セルフ・カウンセリングで自己探求し、自分の心のからくりを理解し受け止めると、他人との関係が変わっていくことを実感しました。

もっと学びを深めたいと思い、心理カウンセリングの講座や自主グループなどにも参加し、複数のカウンセリング方法を学ぶため、2004年4月から女性のためのスクールのカウンセラークラスに通い、2005年4月に卒業しました。その間に、他団体のカウンセリング講座も受講しました。

カウンセリングルームでカウンセラーをしていましたが、2006年現在はアロマセラピーの仕事のため、カウンセラーの活動は休止し充電中です。

セルフ・カウンセリング

セルフ・カウンセリングは、1960年代に渡辺康麿先生によって創案された“一人でできるカウンセリング”です。自分に起きたある一場面を、フォーマットに沿って記述していくことで、自分の思いこみ(既成概念)から自由になって、自分と世界(他者)とを再発見する方法です。

セルフ・カウンセリングの学びは、1996年から始め、現在も継続中です。

これからご紹介するのは、私が以前に書いたレポートです。
当時、セルフ・カウンセリングを学び始め1年半経ち、自分がどのように変化していったのか、学びの途中経過をレポートにまとめたものです。(1998年3月に書かれたものです。)
このレポートを通じて、カウンセリングによる、心の変容というものを少しでも知っていただければ幸いです。

セルフ・カウンセリング®は登録商標です。)

セルフ・カウンセリングにたどり着くまで

セルフ・カウンセリングを学び始めたのは『自分を知りたい、どうにかしたい』という思いからでした。

そう思ったきっかけは、『自分は他人と比べて幸福感を感じ取る能力が低いのではないか?』という疑問からでした。こう思いはじめたのは、10年以上前だったと思います。そもそもこんな事を考え始めたのは、夫とのコミュニケーションの行き違いから、彼にいつも不満を感じ、彼の後ろ向きな発言にいつも苛立っていたからです。

さらに私は、『夫は劣等感が強く、社会的協調性が欠けている』と感じ始め、その人間性にも疑問を持つようになりました。私はそんな人間を選んだ自分が情けないと感じ、『"自分の性格だから変わらない"と言い張る彼をどうにかしたい』と思っていました。

当時は、考え方の違いから意見が衝突すると、徹底的に話し合い、理解し、妥協し折り合いをつける、という事が私の理想で、そうあるべきとかたくなに信じていました。

しかし、彼は話し合いをいつも途中で放棄してしまい、私の言葉を最後まで理解しようとはしませんでした。その時の彼の心情を察すると『あいつは何を言っても聞かない、自分の意見は絶対正しいと思っている。だからやりたいようにやらせておけばいいんだ、その場だけ繕えばいい』というような気持ちだったと思います。

しかし私の望みは、"言われた通りにすればいいんだろ"という投げやりな開き直りではなく、話し合う同じテーブルにつき、真正面に向き合う事でした。

こんなことの繰り返しから私は、『よその家はどうしているんだろう?人間同士なんだから思いの違いから絶対に衝突はあるはずだ、みんなそれでも家庭生活を続けている。私は他の人ができることができない人間なんだろうか?夫は暴力を振るうわけではないし、金遣いが荒いわけでもない、女だとかギャンブルだとかの問題もないし、家事もよその家よりもやっていると思う。それなのに私はいつも不満だらけで、普通の人が感じる幸福感を感じ取れない人間なんじゃないだろうか?』と思い始めたのです。

そして彼と考えが食い違う度に、私の価値観で、彼の言動の間違えを理解させようと必死になっていきました。

そのうち、私自身が彼を理解できていない事、私のやり方では理解させる事はできない、という自分自身の問題に気付きました。

そしてある日、それを決定付ける出来事がありました。それは夫の友人が彼の言動についての間違いを指摘したところ、彼は素直に受け止めたという出来事でした。

友人が指摘した事は、私が日頃、彼に向かって言っていた事と同じでした。私と全く同じ内容の事を言う友達の話には耳を傾けるのに、私の言葉ではだめ、私じゃあだめなんだ。私には彼を理解させる能力も人徳もないのだ。そう思った時、自分は彼にとって何なのだろう?不要な存在なのかもしれない、必要とされない自分、否定された自分という事に愕然としました。

私の存在価値とは何だろう…きっと相手が今の夫ではなく違う人でも、私は同じ事を繰り返すんじゃないだろうか…このままじゃだめだ、私が変わらなければと思いました。

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私の原点に気づいて…

その後、私は夫と別居する事を決めました。そうする事で、私は自分の心のバランスを保とうとしたのです。

とにかく独りで今までの自分を見つめ直したかったのです。

そうやって自分の心の整理をつけると不思議なことに、"夫の全存在を否定してしまいたい"とさえ思っていた不満感は消えていきました。

そして、不満感むき出しだった私の態度が変わると共に、夫の態度までも、私が求めていたものへと変わっていったのです。

そして私にとって有意義な別居生活が始まりました。その頃、このセルフカウンセリングがある事を知りました。

しかし、その時住んでいた家の都合上、セルフカウンセリングを始めるのはそれから更に2年後となりました。

その2年の間、更に私にある事を気付かせる出来事がありました。その頃、私の姉はある悩みを抱えており、高額で鼠講としか思えない自己啓発セミナーに通い始めました。

それに対して、私の両親や弟は騒然となりました。"姉が変なものにひっかかっている"皆止めさせる事しか考えませんでした。私ももちろんやめて欲しかったのですが、それよりも、なぜ姉がこうなったのか?知りたい気持ちでいっぱいでした。

家族たちは、姉に非難めいた言動ばかり浴びせていました。私はその様子にうんざりしていました。

昔から私自身この家族が好きではありませんでした。両親は私が16歳の時、別居。そして18歳の時、離婚しました。子供の頃は、喧嘩の絶えない両親を見て育ちました。

日頃はふざけあう友達夫婦のような両親でしたが、一度、嵐になるともう手が付けられず、私や姉が父と母の間に割って入る事が日常茶飯事でした。

離婚を決めたのは母でした。私もそれに同意し離婚となりました。しかし、その後の母の変化を理解する事ができませんでした。私は父よりも母の味方でしたから、そんな母に幻滅すら感じていました。『もうこの人は私の知っている母じゃあない』そう思いました。

そして私は就職と同時に家を出ました。その時はとにかく、この家族が嫌だったのです。人の話が聞けない、理解しようとしない、自分の言い分だけで一方的にねじ伏せる、結局話し合いにならない、いつもその繰り返し。そんな家族が嫌だったのです。

私は母によく似ていると言われていました。このまま家にいると、この家族に、母に取り込まれてしまう気がしていたのです。私だけはこうなりたくないと思っていました。

そして、私は10年以上家族と離れて、家族とは違う人生を送り、取り込まれていないと思っていました。

しかしどうでしょう、姉の言う事や思いを理解しようとしない両親や弟、それは、まさに夫を理解できない私そのものだったのです。

私はこの事実に愕然としました。家族と共に暮らした18年の間に、私という人間は既に形成されていたのです。"こうはなりたくない"と思った自分に。私の問題の原点はここにあるのだと深く実感しました。

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セルフ・カウンセリングを始めたけれど…

私が自分自身に疑問を持ち始めてから、自分の色々な面が見えてきました。そして根底にある問題にも手が届ききそうな所まで来ている事も感じていました。しかし、そこから先に行き着く術が見つかりませんでした。

そしてセルフカウンセリングを学び始めました。しかしその方法を習って自分を明らかにしていっても、その先何があるのかという疑問がいつもありました。

先生は、自分の思いの奥にある感情、その奥の欲求をしっかり突き止める事で解決の知恵が自分の中から湧いて来ると言われました。でも私には、なぜかピンときません。今までの自分から想像すると、本当にそんな知恵に到達できるとは思えなかったのです。

先生は自分が変われば相手も変わるという事もおっしゃいましたが、それも信じ難いと感じていました。自分と同じように、相手も何年もの歳月の中で自分自身を築いて来て、それが簡単に変わるのだろうか?変わりたい意志がなければ変わらないのでは?と思っていました。

心が揺れない小さな変化

学び始めてから4ヶ月を過ぎる頃、私に変化がありました。それは、ある夫婦間の相談に乗ることになり、その時に今までと違う対応が出来たという事でした。

対話の中で、何よりも大事にしなければいけないのは"聴く"という事でした。相談者は何を求めているのか、短絡的な解決策でなく、自分の思いを聞いて欲しいのです。

先生からのアドバイスもあり、私は終始、聴き、大事な事を引き出させる話し方や質問を繰り返すよう努めました。そして、相手が何を欲しているのか、私自身が理解できるようメモを取り、後で要約したものを渡しました。

相談者に自分の事を客観的に見てもらう為です。相談者は、私に話が出来ただけで少し落ち着く事が出来たと言っていました。

私はこの体験で一つ目標を達成できたのですが、もう一つ、不思議な、今までにない現象が私の中に起きた事も発見しました。今までの私は、他人事でも"トラブル"というだけで精神的に参ってしまいました。しかし、今回は、全く心がざわざわと揺れたりする事なく、静かに落ち着いて対応できたのでした。

これは私にとって大きな前進でした。些細な事でも『ああしておけば良かった、こうしておけば良かった…』と後悔したり、他人のトラブルでも、自分の事のようにどっぷりと浸かり、気負い『結局、解決するのはその人本人で、私は役に立たない、何も出来ないのだ』と挫折感と絶望感でいっぱいになっていました。

挙句に、そのストレスから体調を崩したりと、そんなことの繰り返しでしたから、それを思うと、この時の私の変化は大躍進だったと思います。

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自分が変われば相手も変わる

他にも、夫との関係でも小さな変化がありました。

彼は日頃から、私のだらしない所が嫌だと感じているようです。だらしなさという点では、私の気になる所と彼の気になる所が違い、そこがトラブルの元になっているようです。

家では家事を分担していますが、食事に関しては私が係りになっています。

ある日の夕食後、私が食べたものを片づけず、他の事をしていた事から夫と口論になりました。

夫の思いは『すぐに片づけて欲しいといつも思っている。自分は相手に言われた事は守るよう懸命に努めているのに、言った本人(私)はやってくれないので腹が立つ』というようなものでした。

セルフ・カウンセリングを学ぶ前の私だったら、その場で決着をつけようと必死でその話について議論しようとしましたが、彼は怒りに囚われていたので話しても無駄と思い、自分の気持ちに整理をつけようと努めました。

そして、私は、セルフ・カウンセリングを応用して今の感情や欲求を書き出していったのです。すると、その中でいくつかのキーワードがはっきりと現れてきました。

私は、"平穏である事が一番大事"そしてそれを乱すものは"悪い""マイナス"であると捉えていたのでした。

それらを読み返してみると、なぜそれが起こったのかといった原因等は、私の中で全く問題になっていませんでした。私の心の表面上は『原因を突き止めなければ』とか『それを解決する為には』等と考えを巡らせているのですが、私の感情や欲求が、一番囚われているのは、その場面での夫のヒステリックな行為や言い方でした。

私は彼の言動に、まずは怒りの感情を持つのですが、心の中では『やめて欲しい、怒らないで欲しい。自分の感情に振り回されず、普通に話して私に訴えて欲しい』と思っていました。

とにかく、怒りの感情が溢れているその場の雰囲気が、恐ろしく私を不安にさせるのです。

私が夫との口論の中で何に囚われていたのか、自分自身を整理する一方で、夫との間の問題も整理しなければいけません。そこで私は、夫に自分の思っている事を、常識的な善し悪しを考えず、伝える事にしてみました。すると次の日、夫は、自分がその時どう行動すれば良かったのか考えて、改めて私に伝えてきたのです。

それは『怒鳴り散らさずに、食べた物はさっさと片づけてから他の事をして欲しいという願いだけを言えば良かったんだ』という事でした。私は驚きました。彼の口からこんな事を聞くとは思ってもいなかったからです。

私は改めて、今までの自分達が、いかにコミュニケーション不全であったかが分かると共に、相手にきちんと伝えれば、相手もきちんと返してくる、相手も変わるという事を実感したのでした。

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相手を裁かず自分のために

こうやってセルフカウンセリングで学び覚えた事を、日常生活の中で自分なり応用し、会社での出来事、親兄弟からの相談、私自身の事、私と夫との事に役立てていきました。

そして学び始めてから1年半たった頃、また夫と口論になった事がありました。

その日、私は残業続きで、会社の方も親会社が外資系企業と合併が決まる等の出来事があり、先行き不安で気が滅入っていました。

私はいつも帰宅前に電話を入れ、夫が、すぐにでも夕食が食べたいと言えば、弁当を買って帰るようにしていました。その日も遅かったので弁当で良いと言われました。

帰ると夫はさっさと弁当を食べ始めました。買ってきてくれと頼まれた弁当は、冷たいものばかりでしたので、せめてお茶ぐらいは飲んで暖まった方がいいと思い、やかんを見るとお湯がありません。電話をしたらお湯を沸かしておいてといつも頼んでいたのですが、また忘れられたかと思い、夫を責めるような言い方をしました。

しかし、お湯は既に沸かしてあり、ポットに移してあったのでした。私はよく見る事もしないですまなかったと思い謝りましたが、これがきっかけとなり、口論へとエスカレートし、私の言葉不足から夫が憤慨しだしてしまいました。そして最後に、彼は灰皿を床にぶちまけました。

私は『あ一あ、やられた、またこれだよ』と思いながらどうしたものかと考えていました。

私は、実家でよく行われていた両親の喧嘩で、物に当たり散らしたり、怒鳴り散らしたりという状況が一番嫌いでした。この夫も、私にあの不安を運んでくる一員なのかと思うと改めてがっかりしていました。
『いつもそれだけはやめてくれと言っているのに、分かってもらえないんだ』という気持ちでいっぱいでした。

夫とこのまま話しても解決しそうにないと思い、黙っていつもと変わらず、喧嘩などなかったかのようにボーっとテレビを見ていました。

私は一方で平常心でしたが、もう一方で不安でした。そこでなぜ不安なんだろう?と考えました。

私は夫がわざとぶちまけた灰皿とごみが、そのままになっている事に、ひどく心が揺れていると感じました。

それは私を恐ろしく不安にさせる、両親の喧嘩の残骸と重なるものだったからです。

『これさえなくなれば、目に見えなければいいんだ。夫がやった事だから夫に片づけさせる事が戒めと思っていたけれど、そんな期待をするより、いつまでも続いている自分の不安を自分で消し去ろう、片づけてすっきりと不安を打ち消せばいいんだ、なんて簡単な事じゃないか、夫を戒めようなんて考えなくていいんだ、自分の為にやろう』そう思った時、心が晴れてくるのを感じました。

私は『私が片づけてしまえば、夫にも私が意図しようとするようなものでなく、何か違う思いが浮かぶかもしれない。とにかく自分で自分をすっきりしよう』と思い片づけ始めました。

すると夫は、私の行動にはっとした様子で少し手助けする動作があったのです。

私は『やっぱり私が考えもしない夫の行動があった。何を思ったかわからないけど、これでいいんだ。これで…』と思いました。

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心の奥底の本当の願い

私はその後、お風呂に入りながら、色々な思いを巡らせていました。

『私はどうしたいのかなあ、何が望みなんだろう』と思っているうちに、ふと、母の事を思い出しました。

1997年5月に家族で旅行に行った時の出来事です。姉は以前から、自分自身が抱えている悩みは、母との親子関係に原因がある。それが何か突き止める事が悩みを解決するきっかけになると思っていました。

その旅行は、姉が、母に自分の思いを伝えたい、ゆっくり時間を取って話したいと企画したものでした。

姉が話す最中、私は彼女の手助けをする一方で、母にも母自身の思いというものを聞いてみました。

母は子供の頃ずっと母親に認められたいと望んでいたといいます。一生懸命やる事で、学校などではそれなりの評価をされていたようですが、家では長女ばかりが優遇されていたと感じていました。

母は、8人兄弟の中間子、ほっといても大丈夫と親にかまわれない子供でした。父親からは一度だけ、自分が認められたと強く感じた事があったそうです。しかし、母親からは、未だにそれを感じた事がないというのです。

母は、そんな母親に認めて欲しいと思いつつ、恨みがましく思っています。母の他の兄弟も同じような思いがあるようです。

そんな母の話を思い出しながら、ふと、私が子供だった頃の母も思い出しました。

母はいつも、家の事を人に頼まず、全部自分独りでやっていました。意図的に子供にやらせたりする事はあっても、結局自分で処理していました。それはあらゆる事に言える事でした。

とにかく人に頼らない、いえ、頼れない人だったのです。私達兄弟や父は、母が多少具合が悪くても大丈夫かな?と心配した記憶がありません。母は根を上げない人でした。私達もそれが当然なことと思っていました。

しかし母の中では、がんばっている事を母親に認めて欲しい、と思うと共に、自分の夫や子供達にも認めて欲しかったんじゃないだろうかと思いました。

根を上げたら負ける、認めてもらえない。本当は自分の家族に頼りたい。指示をしたり、口うるさく言わなければやらない子供や、自分の思いをぶっけると大喧嘩になる夫。それは母の思いとは、かけ離れたものでした。

"家族は自分を認めてくれて、手放しで頼りになるもの"それが母の望んでいたものだったのではないだろうか?とそこまで気がつくと、私はもう泣けて泣けて仕方ありませんでした。

母は私と同じなんだ。

私はこの日、とにかく気が滅入っていました。そんな中『こんなに落ち込んでいる自分は、家に帰って夫に頼っていたい、いちいち私が指示しなくてもこんな時、気が利く頼りになる夫であって欲しい』そんな風に感じていたのです。

私は今まで『私を頼ってくれる、望んでくれる人の役に立ちたいと思い込んでいたけれど、本当は自分が頼りたかったんだ』という思いでいっぱいになりました。

子供の頃、喘息発作で苦しい時のことも思い出しました。しばしばおこる喘息は、薬を飲んで発作が治まるのを待つしかありません。そんな時、家族は、傍らでテレビを見て談笑しています。私は横になって発作がおさまるまで必死に戦います。

喉に痰が張り付いて呼吸困難になり、もし息が出来なくなれば死んでしまうかもしれないのです。

今生きる事に必死になっているのに、誰も見てくれない。気遣ってくれない。『助けて!誰か…でも誰にもどうにも出来ない…』そう子供心にわかっている私は、必死で戦うしかありません。本当は誰かに助けて欲しい、どうにかして欲しい、頼りたい。

そんな子供の頃の自分までもがオーバーラップして涙が止まりませんでした。『えらいね、よくがんばったね、本当に…』子供の頃の私を誉めてあげたい思いでいっぱいになりました。

そうだったんです。私は、私の本当の願いは、何の不安もなく、誰かに頼る事で、穏やかに安心して、心の平穏を保っていたかったのです。それは母親に抱かれて安心しきっている赤子のようにです。

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レポートの終わりに

講座の中で、他のレポートに取組んでいるとき先生から、ある場面について「この時、頼りたかったっていう気持ちだったんでしょうか?」と言われた事がありました。

その時、私は『う一んどうだろう?』とちょっと胸につかえるような思いがありました。それがこの事ではっきりとわかりました。なぜ胸につかえていたのか、私の中では"頼りたい"と"頼れない、自分でどうにかしなければならない"という感情が責めぎ合っていたのです。

この時の先生の言葉は、私を推察したものです。しかし、自分では分からず他人には見えるもの、それがとてもに重要な意味を持つ事を知りました。そして書く事の重要さ、後から読み返す事の重要さも知りました。

私は1年半、同じような作業をしているわけですが、その分実習も行い書き続けています。これを書くにあたって、わたしがどのように変わっていったのか、一番始めの受講感想から読み返してみました。すると、何度となく"感情がうまく取り出せません"と書いていることに気がつきました。

場面記述の作業でも、場面洞察の感情の部分で足踏みしています。私は感情の表現が乏しいのだと少しだけわかってきました。なぜなのかは、これからの課題であると思います。私は6期目を終了して受講をひとまず終わらせます。今途中になっている記述は続けるつもりです。そして機会があればまた違う形で、このセルフ・カウンセリングを続けていきたいと思っています。(記 1998年3月 昭和女子大オープンカレッジ修了にあたって)

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